能力と人格について

オタクコンテンツって要するに人間の欲望を先端化させたもの(過剰にしたもの)であるから実際は万人が好きである。ただし現実と大きなギャップがあるために常に現実を見て、そして現実で欲望を満たすことができていた人物は拒否反応をしめす。かつてはこういう構図であったためにオタクコンテンツは希少性が高まっていたが近年では万人がネットを利用しているために拒否感が減っており、かつて刷り込まれた希少性のみが一人歩きしている。つまり、オタクであることがステータスになっている。そのためにいかに好きで詳しいかのマウント合戦が繰り広げられる。この際に背負った劣等感を原動力として実際に行動に移し、歪んだ人格は矯正されないまま能力だけを得た人間が生まれる。当然だが、この手の人物は自分が得た能力に誇りを持っており、そしてよりどころとしているので、自分のランキングが落ちないように常に努力する。そして継続的な努力が日常化する→能力が表面に現れて取り巻きから称賛されるという好循環が生まれる。つまり自分の人格を治すことなく歪んだ人物のままでいることが可能になってしまう。これはよくあることだ。

行動力や能力向上における方法論の体系化、それから継続的な努力に対して学ぶところは大いにあるが、自分はそうなりたくない。あと、この手の人物は抽象化する能力があまり高くないイメージであり、能力が一部のみ高い専門バカであることが多い気がする。これはその人物自身の人格矯正ができていないことから感じることだ。まぁ気づいてはいるが今更治すことができないと諦念している人もいるかもしれないので、一概に言えることではないのは承知している。

それから、こうして能力を上げた人物(歪んでいる人)は生まれた環境が得てして良い。当然だが能力を上げるためには方法論の獲得とそれを実行して継続的な努力をし、身に付ける必要がある。幼少期の頃に論理的な思考を得た人物は意識せずともそれが可能であるために自分が先天的に優れていると錯覚する。いわゆる幼児的万能感であり、これは成長とともに薄れていくが、あくまで薄れるだけであってやはり自分が優れていると思っている人物は多い。ここで定義する優れているとは能力が高いという意味ではなく、遺伝子的になどという優性思想的なことだ。

自分が他者より何かできるという意味での能力の高さの差は当然存在し、それを図るのは自然であり、単なる客観的に見たうえでのデータに過ぎない。ここではそうではなく、自分が先天的に特別であると錯覚している人間が歪んでいて自分を見れていないと感じると主張したい。

この優性思想が生じるのはアニメや映画などの影響も大いにあると感じる。いわゆる努力しなくても他者よりずば抜けて能力が高い天才キャラであったり、どんな努力でもすれば必ず報われるという世界公然仮説の押し付けだったりがあるからだ。

反論として現実にも天才はいるじゃないかと言われるだろう。確かに能力がずば抜けていてわずかな努力で何でもできる人はいる。しかしながらそういう人物の過去は得てして幼少期のころから様々な習い事をしていたとか、ガキのころから方法論を教えられたとか、教えられた記憶はなくとも身近に本などのインプットとなる資料が多く存在していて好奇心から勉強していたとかの過去がある。

さらなる反論として、インプットの資料に関しては今の時代はネットがあるからその差はないじゃないかという人もいるだろう。半分同意で半分否定的である。たしかに情報自体は多いが玉石混合であり、言語能力が育ちにくい貧しい家庭環境で生まれた人物が果たして情報を選び取ることができるだろうか??しかも一般的には正しい情報であっても当人には合っていない情報も多い。自分でその調節までしなければならない。そんなことが言語能力が低い人間に可能だろうか??

誰しも人間であるならまずは言語を獲得し、そのうえで情報を得て思考能力や人格が形成されていくのだから、差がないというのは無理な話だ。

しかもこのことに気が付くのはある程度の年齢になったときであるから非情だと思う。

 

長くなったが何が言いたいかというと能力が高い人間は決して聖人ではないし、人格が歪んでいる人物も少なくないということだ。理由は上記で述べた通りである。

歪んでいるが能力が高い人物をみかけた際には、継続的な努力を見習ったり技を積極的に盗んだりしつつ、人格の面では反面教師にするのが良い。あと、取り巻きがちやほやしているといった「歪んでいる人物が成功している」状況はよくあるが、下手に嫉妬したり、世界の理不尽さに怒ったりするのではなくて、無視すればよい。取り巻きはそういう人間だ。わかっているけど利益があるからあえて取り巻きをやっている人間もいるだろう。そしてそんな取り巻きにちやほやされて当人が悦に入っているなら所詮それまでだ。反面教師にしつつ淡々と能力をあげる努力をすればよい。